寺の目的

「お寺は何をする所?」と尋ねると、ほとんどの人は首をかしげます。葬式や読経など、死んだ人の供養をする所だと思っていたり、あるいは「分からない」と答える人も少なくありません。
正解は──。
「寺は仏法を聞く所」です。
仏法を説かれたお釈迦さまは、今から約2600年前、インドのある王様夫婦の子供として誕生されました。何不自由のない日々でしたが、人間に生まれた以上、生・老・病・死の苦悩は逃れられぬと知り、どんな幸せも続かないことに深く悩まれたのです。
“苦しくても、なぜ生きる”
その答えを求めて勤苦6年、想像を絶する厳しい修行に打ち込まれ、35歳の12月8日、ついに仏のさとりを成就されました。そして、無上殊勝の本願を建てられている阿弥陀仏のましますことを明らかに知られたのです。
釈迦一代の教えは、全て7千余巻の一切経に収まっています。その一切経を何度も読まれた親鸞聖人は、『正信偈』に
如来所以興出世
唯説弥陀本願海
(如来世に興出したまう所以は、
ただ弥陀の本願海を説かんがためなり)
と仰り、釈迦は一生涯、「阿弥陀仏の本願」(弥陀の本願海)ただ一つを説かれたのだと断言されています。
この阿弥陀仏の本願こそ、古今東西すべての人が求めてやまない「なぜ生きる」の答えだと、親鸞聖人は明らかになされました。
阿弥陀仏の本願とは
では、阿弥陀仏の本願とは何でしょうか。
阿弥陀仏とは、大宇宙に無数にまします仏方(十方諸仏)の王様であり、本師本仏ともいわれます。大宇宙で最も尊いその阿弥陀仏が、
「どんな人も
必ず絶対の幸福に助ける」
という約束をなされている。
それが「阿弥陀仏の本願」です。
親鸞聖人はこの阿弥陀仏の本願を、主著『教行信証』の冒頭に、「難思の弘誓」と仰っています。
難思の弘誓は難度の海を度する大船(教行信証総序)
苦しみ悩みの絶えない人生は、荒波の絶えない海のようなものですから「難度の海」と言われます。その人生の苦海を、明るく楽しく渡してくださる大船に例えられているのが、阿弥陀仏の本願です。

どんな人も渡り難い人生の海
「人生は苦なり」
これはお釈迦さまのお言葉です。王様の子として何もかも恵まれておりながら、一体、何の苦しみが?と思われますが、どんな人も苦しみから逃れて生きることはできない、皆、難度海で溺れ苦しんでいると仏教では教えられています。
そう言うと、「苦しみがあるから楽しみもあるんじゃないの?楽しいだけなんて、そんなの幸せじゃない」。そんな声も聞こえてきます。
確かに、乗り越えた困難が大きいほど、つかむ喜びもまた格別。スポーツでも学問でも、仕事でもそうです。
“人生楽ありゃ苦もあるさ 涙の後には虹も出る”
苦しみがあるから人間は磨かれる。苦しみを乗り越えて生きる姿こそ素晴らしい、そう考える人も多いでしょう。
ただそれは、命あっての物ダネです。人の命は決して長くはありません。平成に入ってはや30年たちましたが、振り返ればあっという間でした。過ぎた30年がアッという間なら、たとえ100年生きたにせよ、振り返れば、アッ、アッ、アッ、で終わります。
凡そはかなきものは、この世の始中終、幻の如くなる一期なり (御文章5帖目16通)
蓮如上人の有名な「白骨の御文」の一節にもあるとおり、はかないものとは、幻のように過ぎ去る人の一生ではないでしょうか。

“死にともない”が本心
皆、老いて死んでいくのだから、そう深刻に考えず、今を楽しめばいい。死んだら死んだ時さ、と楽観する人もあるでしょうが、こんな話があります。
奈良県の有名なポックリ寺に、大阪の婦人会の人たちが訪れました。長患いで苦しんだり、家族に迷惑をかけるのは嫌だから、どうかポックリ死ねますようにと、皆で願懸けをしたのです。
ところが3日後、その中の1人が本当にポックリ死んでしまった。
こうなると”あの寺のゴリヤクはほんまや””霊験あらたかや”と大騒ぎになり、それからというもの「次はあんたの番や」「いやあんたこそ、真剣に頼んでおったで」と、仲間内でゴリヤクの押しつけ合いが始まったのです。ちょっとした頭痛や腹痛がしようものなら「いよいよ自分の番か」と戦々恐々。これではもうやってられんと、また皆でポックリ寺へ、前回の祈願の取り下げに行ったそうな。
「ポックリ死ねたらええなあ」と「考えている死」は怖くはありませんが、いざ本当に迫ってくると慌てふためきます。誰かが言った”冷や飯食うても娑婆におりたい”が、我々の本心でしょう。
九州博多の名僧・仙厓。いよいよ臨終という時に、弟子たちが最後の言葉を依頼した。
「先生、何かお言葉を」
差し出す色紙に、仙厓が一筆、
「死にともない、死にともない」──。
尊い言葉を期待していた弟子たちはビックリ仰天。これでは師の名声を汚しはしまいかと案じた弟子が、
「今のお言葉もまことにけっこうではございますが、何とぞ、もう一言」
と再度の依頼。すると仙厓、先の言葉の上に、
「ほんまに、ほんまに」
と書き加えたという。
いかなる名僧も、死にたくないのが本音のようです。
誰だって墓場へ近づくのはまっぴらごめんですが、嫌じゃ嫌じゃと言いながら、皆、墓場へ向かっているのです。
上は大聖世尊より始めて、下は悪逆の提婆に至るまで、逃れ難きは無常なり (御文章3帖目4通)
上はお釈迦さまのような偉人から、下はその釈迦殺しを企てた極悪の提婆まで、「死」だけは何人も逃れられません。
死ぬことを「旅立つ」といいますが、最後は誰もが、いや応なく後生へ旅立たねばならない。どこへ行くかも分からず、誰も連れ立ってはくれず、たった独りで逝くのです。
そんな暗い未来に向かう日々が、心から明るくなる道理がありません。幾ら明るく楽しくふるまっていても、いずれ寂しい本心が顔を出します。
「おもしろうて やがて悲しき 鵜舟哉」(芭蕉)
花火の消えた夜空の闇が深いように、華やかな楽しみの去ったあとほど、独りになるとやりきれないもの。その心の穴を埋めずにいられないから、酒やタバコ、ゲームやテレビ、ファッションや買い物、スマホに依存するので、趣味や生きがいなど一切は、ごまかしだとフランスの哲学者・パスカルも言っています。
これでは、私たちは何のために生まれてきたのか、何のために生きているのか分かりません。
光明の広海に浮かぶ
そんな苦海に溺れるすべての人を、必ず大きな船に乗せ、現在ただ今、絶対の幸福に救うと誓われているのが、本師本仏の阿弥陀仏です。
この大船は、極楽浄土(無量光明土)への直行便ですから、この船に乗せられると同時に、往く手は限りなく明るい未来にガラリと変わります。
親鸞聖人は、阿弥陀仏のお約束どおり大船に乗られ、苦悩渦巻く人生が、光明輝く人生に転じた驚きと喜びをこう仰っています。
大悲の願船に乗じて、光明の広海に浮びぬれば、
至徳の風静に、衆禍の波転ず (教行信証行巻)
(阿弥陀仏の造られた大悲の願船に乗じて見る難度の海〈人生〉は、千波万波がきらめく明るい広い海ではないか。順風に帆を揚げる航海のように、何と生きるとは素晴らしいことなのか)
親鸞聖人は、この身になるための人生だったと明らかに知らされ、これこそ「なぜ生きる」の答えであると、90年の生涯、徹底して伝えていかれたのです。
弥陀の救いは「聞く一つ」
では、どうすればこの大船に乗せていただけるのか。それは、阿弥陀仏の本願を熟知されている、お釈迦さまにお聞きするよりありません。
お釈迦さまは、『大無量寿経』の本願成就文に、
「聞其名号」(その名号を聞く一つ)
と教えられています。
名号を聞くとは、阿弥陀仏の本願(南無阿弥陀仏)を聞くということです。
ところが私たちは、阿弥陀仏が
「聞く一つで必ず、絶対の幸福に救う」
と、命を懸けて誓われている本願を、素直に聞くことができません。
「絶対の幸福なんて本当にあるんだろうか」
「この世で助かることなんて、あるの?」
「聞く一つ?ほかに修行や学問が要るんじゃない」
「聞いてもすぐ忘れる私は、無理だよね」
「すぐ腹立てる人は、ダメでしょ」
等々、いろいろな疑いが必ず出てきます。
この「阿弥陀仏の本願を疑う心」を疑情といい、また自力ともいいます。この自力疑情のある間は、絶対に弥陀の願船に乗ることはできません。
ですから阿弥陀仏は、私たちの「疑い」を一念で、必ず晴らしてみせると命を懸けられているのです。
そのお約束どおり大悲の願船に乗せられると同時に、自力(疑情)は一切なくなります。その弥陀の本願力を他力といいます。
世間では、他力というと他人の力や天地自然のことだと思い、他人まかせの無責任な言動を「他力本願」などと言っていますが、とんでもない誤りです。大事な仏教の言葉ですから、正しい意味で使わないと仏教を大きく誤解させる元になります。
他力とは、阿弥陀仏の本願力のみをいうのです。
聞法は自力と他力の一騎打ち
お寺とは、この阿弥陀仏の本願を聞く所です。その寺の本堂は「内陣」と「外陣」とに分かれています。
内陣は外陣より一段高く、阿弥陀仏がご安置され、善知識が阿弥陀仏の本願を説く所。外陣は、私たちが善知識の説法を聞かせていただく場所で、正座で聞けるよう畳が敷かれています。
「陣」とは、合戦とか軍隊の集結している所をいいますが、なぜお寺にこんな物騒な字が使われているのでしょう。
聞法とは、熾烈な戦いだからです。
内陣からは、今宵も知れぬ命だぞ、早く大悲の願船に乗りなさいと、善知識の説法を通して、南無阿弥陀仏(弥陀の本願力)の真実の弾が打ち込まれます。
一方、外陣の私たちは、体は聞法の場に座っていても、心は金や名誉、色恋や趣味に奔走し、少しも真面目に聞こうとしません。
余命いくばくもない、弥陀の本願より救いはないと理屈は重々分かっていても、まだまだ死なんとのんびり構え、弥陀の本願を疑いはねつける自力疑情の弾を、外陣から打ち返すのです。
この自力と他力の一騎打ちが聞法であり、その火花散る場所が寺なのです。
阿弥陀仏の本願力は、必ず私たちの自力疑情を破り、救い摂ってくださいます。その時が大悲の願船に乗せられた一念です。
阿弥陀仏の本願に疑いが晴れ、大悲の願船に乗じられた親鸞聖人のお言葉が、
誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ (教行信証総序)
「摂取不捨の真言」も「超世希有の正法」もともに阿弥陀仏の本願のことです。
聞けば必ず「まことであった」と知らされるから、そこまで聞きなさい。あれこれ迷って千載一遇の聞法のチャンスを逃してはなりませんよ、早く大悲の願船に乗せていただくところまで進みなさいと、親鸞聖人は真剣な聞法一つを勧められているのです。
たとい大千世界に
満てらん火をも過ぎゆきて
仏の御名をきくひとは
ながく不退にかなうなり
(浄土和讃)
(たとい、大宇宙が火の海になろうとも、
その中、弥陀の本願聞き抜く人は、
必ず不滅の幸せに輝くのだ)
