法話 歎異抄第1章

先日は松本先生より、歎異抄第1章について聞かせていただきました。

目次

第1章が分かれば他の章も皆わかる

歎異抄は全部で18章ありますが、第1章に収まります。
つまり第1章が分かれば他の章も皆わかるので、とても大事なのです。

その第1章の冒頭には「弥陀の誓願」と書かれています。
これは阿弥陀仏の本願(お約束)のことで、仏教を説かれたお釈迦様はこの阿弥陀仏の本願一つを説かれたのだ、と親鸞聖人は次のように仰っています。

如来所以興出世

唯説弥陀本願海

(正信偈)

阿弥陀仏の本願とはどのようなお約束か?

「どんな人をも 必ず助ける 絶対の幸福に」
と阿弥陀仏は誓われています。

「どんな人をも」ということを歎異抄第1章では、「老少善悪の人をえらばず」と書かれています。
年配の人も若い人も、善人も悪人も、皆助けるということです。

「必ず助ける」と阿弥陀仏はお約束されていますが、非常に多くの人がこれを「死んだら極楽」と誤解しています。
この誤解を正すため、「生きている現在ただ今、阿弥陀仏は救ってくださるんだよ」と親鸞聖人は教えられました。

なので親鸞聖人の教えを「平生業成」と言われます。

生きている現在ただ今、人生の大事業=人生の目的を完成できる。
だから早く完成しなさいよ
、という意味です。

人生の目的は、平たい言葉で言うとなぜ生きるの答え。
絶対の幸福になることです。
歎異抄では「摂取不捨の利益」と書かれてあります。

なぜ生きるの答え「摂取不捨の利益」とは?

摂取不捨の利益とはどのような意味か?

摂取は摂めとる、不捨とは捨てない、利益は幸せのことです。
ガチッと摂め取られて捨てられることの無い幸せ、という意味です。

ではそのような幸せにいつなれるのか?
歎異抄第1章の冒頭に「念仏申さんと思いたつ心のおこるとき」と書かれています。

ただ、この言葉の誤解がまた非常に多いのです。

ほとんどの人が「念仏称えた時」と誤解しています。
教科書を書くような有名な学者でさえ、「念仏称えた時」と誤解していました。

ですが、「念仏申さんと思いたつ心のおこるとき」と「念仏称えた時」は一緒でしょうか?

称えるのは口です。
称えようという心の起きた時とは、明らかに違います。

摂取不捨の利益、絶対の幸福になれるのは念仏を1度も称えない前、
「称えよう」と思いたつ心の起きた時なのです。

この心が起こるところまで、続けて仏法を聞かせていただきましょう。

編集後記

歎異抄は文章が非常に美しくて、声に出して読みたくなるほど。
ただ誤解しやすい箇所がたくさんあることも、今回聞かせていただきました。

正しい意味をお聞きできることを、大変ありがたく思います。

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