今回は、親鸞聖人のお弟子の中でも特に有名で「二十四輩の筆頭」とされる、飯沼の性信房を紹介します。
飯沼の性信房とは
飯沼の性信房は、文治3年(1187年)11月19日に常陸国(現在の茨城県)鹿島神宮の宮司、大中臣宗基氏のもとに生まれました。
親鸞聖人より14才年下です。
姓を大中臣、本名を基久または与四郎といいます。
与四郎は、幼い頃より「悪五郎」と呼ばれるほどの腕っぷしの強い乱暴者でした。
その腕力は「七十五人力」だったと評価され、世間から大変恐れられていました。青年になってからも怪力無双、心性狼戻の無法ぶりであり、18歳の頃には、宮中で行う相撲の節会に召されて上洛し、天覧角力に勝って恩賞にあずかったとも言われます。
そのような荒くれ者が、どのようにして真実の仏法と出会ったのでしょうか。
法然上人と与四郎
与四郎が元久2年(1204年)18歳の春、武者修行の志を抱いて諸国を遍歴していました。紀州(和歌山)の熊野権現に籠もり、荒修行をやっていると、ふと京都へ向かわなければならない気がして、京都へと赴きます。
その時、たまたま吉水草庵の前を通りかかると、法然上人のご説法を聞こうとする人々が、門前に市をなして集まっていました。
そこには身分の高い人も低い人も、出家者も在俗者もおり、差別の厳しい当時としては、とても不思議な状況であり、かつ立錐の余地がないほどの集まりでした。
与四郎はなぜかその場所がとても気になり、縁側で法然上人のご説法を聞くことにしました。
法然上人はご教導くださいます。
阿弥陀仏の本願は、僧侶も、在家の人も、男も女も、 どんな極悪人でも、必ず、救うと誓っておられる。 この、阿弥陀仏の本願を、真剣に聞きなされ。必ず、 晴れて、満足できる世界があります。
与四郎は、法然上人の教えが深く心に響き、これまでの悪行を思い出し、涙を流しながら上人の御前に進み出て、申し上げました。
私は東国の常陸の者で、長年の行いは、生き物の命を奪い、人を苦しめ、悪いことばかりをしてきました。仏法を聞くのは今日が初めてです。しかし、このような罪深い私のような者でも、阿弥陀仏の大慈悲によって救っていただけるというみ教えを伺い、とても頼もしく、ありがたく存じます。どうかお願いです、私を弟子にしていただき、このような悪人をご教導ください。
そしてすぐに髷を切り、法然上人の門下となったのです。
親鸞聖人との師弟関係
この時、法然上人は高齢であったため、与四郎を高弟である善信房綽空(当時の親鸞聖人)に託しました。
親鸞聖人にとっても生涯で初めてのお弟子です。
与四郎は親鸞聖人から法名を「性信」と賜り、それからは「聖人のいるところ必ず性信房の姿あり」といわれるほどの、常随眤近の弟子となりました。
その後、1207年に承元の法難がおこり、親鸞聖人が越後へ流罪となります。その際にも性信房は、親鸞聖人とともに越後へ向かい、行動を共にしました。
承元の法難については、以下の記事も御覧ください。
親鸞聖人がどんなに大変なときでも、性信房が聖人を近くで支え続けていました。
関東布教
1211年、親鸞聖人は赦免されましたが、京都に戻らずに進路を東国へと改められました。
関東布教については、こちらの記事をお読みください。

建保2年(1214年)、聖人が越後から関東に下向したのは、聖人42歳、性信房が28歳の時です。
関東で布教されていた親鸞聖人は、下総国岡田郷横曽根(現在の茨城県常総市豊岡町)にあった、住む人のいなくなった真言宗の寺である大楽寺という寺を譲り受けました。
聖人は性信房に命じて、この寺を再興なされました。その寺が今日の報恩寺であり、「真成報仏恩」 という善導大師の釈文の心を汲んで「報恩寺」と名づけられました。
現在は当時の常陸の報恩寺は焼失し、東京都に移され再建され「坂東報恩寺」と呼ばれています。また旧報恩寺の跡地には、坂東報恩寺の支寺が再建され、常陸の報恩寺も「坂東報恩寺」または「下総報恩寺」と呼ばれています。
報恩寺の周辺には、飯沼と呼ばれる水田が広がり、そこから性信房は、飯沼の性信房と呼ばれています。
この報恩寺の寺伝によれば、親鸞聖人を関東に招いたのは、性信房とその従兄の小島郡司の武弘だったと伝わっています。
性信房は報恩寺を受けたあとも、常に親鸞聖人の近くにいて、関東での聖人のご布教を支え続けたのでした。
60歳を過ぎた親鸞聖人は、関東から京都へ帰られました。その時、性信房は帰りの途中まで同行しています。
親鸞聖人との別れ
京都へ向かう道中、親鸞聖人が箱根へ差し掛かると、性信房に関東へ帰るよう命じられました。
性信房は大変驚きます。
北国や関東、いづれのところであってもこのお聖教の笈(おひづる:大切なものをいれる箱)ばかりは、誰にも頼んだことはございません。この先も聖人の行かれるところには、この笈をかけてお供いたしたいのです。
と涙を流し訴えます。
しかし親鸞聖人は、
そなたと同じように、親鸞も別れがつらい。三十一年の長い間、寝食苦楽を共にしてきたのだから、京都までもどこまでも必ず共にいたいと常に願っていた。しかし私が京都に帰ったならば、関東での真実開顕はどうなるだろうか。信州には西仏、北越には念信、下野には眞仏がいるが、下総、常陸は誰に任せられるだろうか。僧侶も門徒も多い地域だからこのあと法義の混乱も起こるだろう。性信房がこれらの地で布教し、邪義のおこらぬよう戒めてくれるのなら、私は心置きなく京都の地で阿弥陀仏の本願を伝えることができる。よくここを聞き分けて関東に残ってくれよ。
と気持ちのうちを伝えました。
そして、性信房に詩を読まれます。
病む子をば あずけて帰る 旅の空 心はここに 残りこそすれ
関東の親鸞学徒を我が子のように思っていることが伝わります。
この詩の深い意味は以下をお読みください。
親鸞聖人のお気持ちに心打たれた性信房は、名残惜しくはあるけども親鸞聖人の命を謹んでお受けし、すぐに常陸へ帰り、阿弥陀仏の本願の布教に邁進するのでした。
その際、親鸞聖人はさまざまなご制作のお聖教を渡されており、その中に浄土真宗の根本聖典である『教行信証』もありました。
性信房が預かったとされる教行信証は、現在は国宝となり東本願寺で保管されていますが、もともとは坂東報恩寺にあったことから『坂東本』と呼ばれています。
親鸞聖人が性信房に『教行信証』を渡されていることは、法然上人が親鸞聖人に『選択本願念仏集』の書写を許されたことと重なり、聖人が性信房に絶大な信頼を寄せていたことが知らされます。
性信房は関東でも阿弥陀仏の本願・浄土真宗を研鑽し、性信房が書き残した『真宗聞書』は親鸞聖人から大変ほめられています。
また性信房の住持した寺院には、多くの人が集まり、門前市をなすと言われました。報恩寺を中心として現れた熱心な親鸞学徒は、横曽根門徒として有名となりました。
性信房の活躍や、親鸞聖人とのお手紙のやり取りについては、次の記事で紹介します。
編集後記
性信房も親鸞聖人との別れが大変辛かったと思いますが、親鸞聖人も性信房との別れを悲しまれたことは、お二人の関係を知ればよくわかります。
しかし私情をぬきにして、阿弥陀仏の本願を伝えるために今一番大事なことを、親鸞聖人は断行され続けられました。
親鸞聖人の命を受け、そのまま実行された性信房のようなお弟子方のおかげもあり、いま関東で親鸞聖人の教えを聞かせていただけます。
これからも浄土真宗親鸞会東京桜台会館で、阿弥陀仏の本願を真剣に聞かせていただきましょう。