顕正新聞、平成7年10月1日号の内容を紹介します。
東京ベイNKホールでのご法話
平成7年8月20日、東京ベイNKホール(千葉県浦安市)でご法話が開催されました。真実の法水を求めて、親鸞学徒が、首都圏のみならず全国各地から集まり、真剣に教えを聞かせていただきました。
高森先生は、『歎異鈔』第二章を演題に、親鸞聖人まします京都へ命懸けて赴いた関東の同行の心境を明らかにされました。
それは、「なぜ生きるか、聞かせて頂きたい」ただ一つでありました。
おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして、たずねきたらしめたまう御こころざし、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり。しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておわしましてはんべらんは、おおきなるあやまりなり。もししからば、南都北嶺にも、ゆゆしき学生たちおおく座せられてそうろうなれば、かのひとにもあいたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。そのゆえは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が、念仏をもうして、地獄にもおちてそうらわばこそ、すかされたてまつりて、という後悔もそうらわめ。いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。善導の御釈まことならば、法然のおおせそらごとならんや。法然のおおせまことならば、親鸞がもうすむね、またもって、むなしかるべからずそうろうか。詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなりと云々。
(『歎異抄』「第二章」)
【第二章】親鸞聖人の鮮明不動の信念
|意訳|
あなた方が十余カ国の山河を越え、はるばる関東から身命を顧みず、この親鸞を訪ねられたお気持ちは、極楽に生まれる道ただ一つ、問い糺すがためであろう。
だがもし親鸞が、弥陀の本願念仏のほかに、往生の方法や秘密の法文などを知っていながら、隠し立てでもしているのではなかろうかとお疑いなら、とんでもない誤りである。
それほど信じられぬ親鸞なら、奈良や比叡にでも行かれるがよい。あそこには立派な学者が多くいなさるから、それらの方々にお遇いになって、浄土に生まれる肝要を、篤とお聞きなさるがよかろう。
親鸞はただ、「本願を信じ念仏して、弥陀に救われなされ」と教える、法然上人の仰せに順い信ずるほかに、何もないのだ。
念仏は、地獄に堕つる業だと言いふらす者もあるようだが、念仏は浄土に生まれる因なのか、地獄に堕つる業なのか、まったくもって親鸞、知るところではない。
たとえ法然上人に騙されて、念仏して地獄に堕ちても、親鸞なんの後悔もないのだ。
なぜならば、念仏以外の修行を励んで仏になれる私ならば、念仏したから地獄に堕ちたという後悔もあろう。
だが、いずれの善行もできぬ親鸞は、地獄のほかに行き場がないのである。
弥陀の本願がまことだから、唯その本願を説かれた、釈尊の教えにウソがあるはずはない。
釈迦の説法がまことならば、そのまま説かれた、善導大師の御釈に偽りがあるはずがなかろう。
善導の御釈がまことならば、そのまま教えられた、法然上人の仰せにウソ偽りがあろう筈がないではないか。
法然の仰せがまことならば、そのまま伝える親鸞の言うことも、そらごととは言えぬのではなかろうか。
つまるところ、親鸞の信心は斯くのごとしだ。
この上は、念仏を信じられようとも、お捨てになろうとも、おのおの方の勝手になさるがよかろう、
と聖人は仰せになりました。
*極楽 弥陀の住する浄土。苦のない安楽な世界。
*法文 教え。
*比叡 比叡山のこと。京都と滋賀の境にある山。天台宗の総本山がある。
*本願 阿弥陀仏のお約束のこと。誓願ともいわれる。
*法然上人 親鸞聖人の師。浄土宗の開祖。
*業 行為。
*因 原因。
*釈尊 約二千六百年前、インドで仏教を説いた釈迦の尊称。
*善導大師 中国の浄土仏教の大成者。
*御釈 解釈されたもの。
(出典:『歎異抄をひらく』)
編集後記
親鸞聖人に直接会いにいった、関東の同行の心境から、真剣な聞法の大切さを知らされます。
私たちの聞法環境は大変恵まれており、東京桜台会館で、正しい親鸞聖人の教えを聞かせていただけますが、近くに住む人は、楽な聞法に流されているかもしれません。
蓮如上人は、次のように教えておられます。
遠きは近き道理、近きは遠き道理なり。灯台もと暗しとて仏法を不断聴聞申す身は、御用を厚く蒙りて、『いつものこと』と思ひ、法義におろそかなり。遠く候人は、仏法を聞きたく、大切に求むる心あるなり。仏法は大切に求むるより聞くものなり
(引用:『御一代記聞書』)
このお言葉について詳しくは、こちらの記事をお読みください。
これからも浄土真宗親鸞会東京桜台会館で、親鸞聖人の教えを真剣に聞かせていただきましょう。