顕正新聞、平成4年10月15日号の内容を紹介します。
首都圏に真実の法雨
「仏教の根幹、因果の道理を知らされれば、必ず、廃悪修善の心がおこってくる。その浅深は信仰のバロメーターである。」
聴衆の心に深く響く高森先生の大獅子吼が、首都圏に響きわたりました。平成4年8月30日(日)高森先生の御法話が東京のウォーターフロント・千葉県浦安市で開催。
会場は昨年(平成3年)同様、東京ディズニーランド、高級ホテル群が隣接する東京ベイNKホール(平成17年7月10日閉館)、白亜、円形、六千人収容の大ホールは、午前8時の開場とともに親鸞学徒で溢れ、法話会場には求法の熱気が充満しました。

特に夏休み最後の日曜日とあって、両親と一緒に参詣する学生の姿も目立ちました。
沖縄、北海道、台湾や、韓国、サンフランシスコといった海外からも無上仏の本願を聞きたいと、親鸞学徒が参詣していました。
無上仏の光明に誘引された親鸞学徒が、一堂に会して、高森先生の不惜身命のご説法に全身耳と化す。
ご講演の演題は「因果の道理について」。
以下はその要旨です。
ご講演要旨
仏教の根幹は因果の道理である。
世界及び人生の全ての現象には、必ず、原因がある。原因なくして生起する結果は万、億に一つもない。これが三世十方を貫く宇宙の真理、因果の大道理である。
あらゆる、学問は因果の理法に立脚し、原因の徹底究明により、発展を遂げている。
人間の幸・不幸も厳然たる因果の道理に支配されているのであり、釈尊は次の如くご教示されている。
善因善果(善い原因は善い結果を生ずる)
悪因悪果(悪い原因は悪い結果を生ずる)
自因自果(自分の蒔いた因は自分に現れる)
因とは各自の身、口、意の行為である。行為を仏教では「業」といい、我々の身口意の三業は眼に見えない不滅の業力となって我々の本心である「阿頼耶識」の中に蓄えられる。
それがやがてしかるべき縁と和合して結果を引き起こす。
因果の道理を知らない人々は超越的な神仏が人間の運命を支配していると考えている。
故に新興宗教の合同結婚式のような見ず知らずの相手を「神の定めた伴侶」と受け入れる馬鹿馬鹿しいことがなされるのである。
結果は蒔いた種に応じてはえてくる。悪因善果もなければ善因悪果もない。他因自果も無ければ自因他果もない。
酒飲みでグータラな夫との生活に苦しむ妻の苦の原因はそんな男と結婚したという妻の業にある。
縄をうらむ泥棒
「縄をうらむ泥棒」と言う諺がある。捕縛された泥棒が縄をうらむのはとんでもない間違いだ。苦の因は縄ではなく泥棒という行為である。
交差点で交通事故に遭遇した人の因はその時間帯にそこを通過せねばならなかったその人の過去の業である。相手は悪縁であって因ではない。
釈尊が「大象百頭に勝る」と仰せられた強力な業力により、事故現場に引きずり出されるのだ。
一切は己が心に記録した原因が毎日現れてくるのである。
仏教を信ずることを深信因果と言う。因果の道理を深信すればするほど悪を廃し善に向く心が強まる。
信仰の程度を知りたければ、自分の心に訊ねてみればよい。
懺悔の心のないのは悪因悪果、自因自果を信じていないからだ。
何十年聞法していても、悪を恐れず、善に向かない人は、まだ仏教に入っていないのである。
信前は何をしていても何の意味もない、と馬鹿なことを思っている者がいる。
朝夕、きちんとお勤めしている人と、していない者と結果は同じか。一人に仏法を伝えた人と、三人、十人に伝えた人と結果が同じか。絶対に同じでないことを教えられたのが因果の道理である。
因果の道理は信前信後に共通である。阿弥陀仏に救われても善因を励まねば善果はこない。
因果の道理と懺悔の心
因果の道理を知らされた人は、やまらない悪に懺悔せずにおれない。
悪果を受けても懺悔が無いのは因果の道理が分かっていないからである。
懺悔の心があってこそ信仰が進むのだ。懺悔の心が求道である。
親鸞学徒にとってどれだけ聞いても、重ねて確かめても足らないものが因果の道理である。
編集後記
仏教の根幹は、因果の道理です。
蒔いたタネは必ず生えますが、蒔かぬタネは絶対に生えません。
ですから仏教を信ずるとは、因果の道理を信ずるということです。
これを深信因果と言います。
浄土真宗親鸞会東京桜台会館で、重ねて聞法精進いたしましょう。