今回は、O.S.さんにインタビューをしましたので、紹介します!

子供の頃のO.S.さん
いわゆる真面目な子でした。
小中学校では学級委員長になって、
頑張っていました。
先生に喜んでもらいたいと思ったからです。
親にも、手がかからず、
立派に育ってくれたと言われます。
しかし、ふとしたときに、
自分の心の、どろっとしたものを
感じたことを覚えています。
小学3,4年生の頃の記憶なのですが、
母親に、学校の宿題で、
「僕のいいところって何かな」と
聞いたことがあったんです。
すると母は、
「とても心のやさしい子に育ってくれたと思うよ」
と言ってくれました。
それを聞いた時、
「そんなふうに見えているんだ。
でも自分は卑怯なんだ。何か問題が起きたとき、
自分のせいにならないようにしているんだ。
そうじゃないんだよ」
と思いましたが、口にはできませんでした。
だから、
人間のやる善には毒がまじっているという、
「雑毒の善」の話を聞いたときに「そうだよね」と
素直に聞くことができました。
「一切凡小一切時の中に、貪愛の心常に能く善心を汚し、瞋憎の心常に能く法財を焼く。急作・急修して頭燃を灸うが如くすれども、衆て「雑毒・雑修の善」と名け、また「虚仮・詔偽の行」と名く。「真実の業」と名けざるなり。」
「すべて人間の善は、こんな汚い欲と恐ろしい怒りと、醜いねたみに、つねに染まり切っているから、頭の火をもみ消すように努力しても、まことの善は一つもない。みな偽善であり、うそっぱちである」
『教行信証 信巻』
『なぜ生きる』P256-

仏教を聞いたきっかけは?
先輩から「人生の目的を聞いてみないか」
と声をかけられたことがきっかけです。
私が「人生の目的」の五文字について考えたのは、
中学1年生の時でした。
慕っていた祖父が脳梗塞で倒れ、
半身不随になり、
要介護レベル5になってしまったのです。
(※要介護レベル5:介助無しに日常生活が送れない)
絶対治る見込みがないことは、
中学1年生の目から見ても分かりました。
戦時中の厳しい時代、
小学校にも通えていなかったのに、
日本有数の有名企業の局長にまで
上り詰めた人でした。
筆は達筆、将棋も強い、話も楽しい。
お爺さんになってからも、
お婆ちゃん達からもてていました(笑)
「爺ちゃんかっこいいな!」と
いつも思っていたんです。
大学に入る前、
ぼんやりと思い描いていた自分の人生は、
なんとなくいい大学、いい会社に入って、
家庭をもって…というものでした。
ところが、
祖父の姿を目の当たりにし、
「僕の50年後に、これが待っているのか」
と衝撃を受けたんです。
「僕の人生、最後こうなる。
この状態に向かって、僕は向かっているんだ」
と衝撃を受けたのです。
「好きなように生きてこられたから、
後悔してないと思うよ」と祖母も親戚も
言っていましたが、
しかし、病床では、
何千万の貯金があっても、
誇れる仕事をしてきても、喜べません。
才能を発揮して、
周りからは後悔のない人生を送ってこれたと
言われていましたが、
ベッドの上で、自分の腕を上げることすらできない。
これから一生かけて、
最後の最後に喜べなくものを、
積み上げていくのかと思ったんです。
その時、真面目に、
死んだ方が賢いのではと思いました。
無駄だなと思ったんです。
最後の最後に喜べなくなるものを
積み上げる人生、何のために頑張るんだろう。
死ぬの、怖いなと思いました。
「人生の目的」の5文字はその時に考えました。
「あるわけないな、考えたらまずいな」
と感じていました。
そしてその五文字で、
先輩が声をかけてきたのです。
どうせ調子のいいことを言うのだろう。
やりがいのあることをやろうとか、
貢献で自分の意義を示そうとか、
薄甘いことを聞かされるのかなと思いました。
でももしかしたら、という思いがあり、
試しに聞いてみようと思ったんです。

仏教を聞いて感動したことは?
死の問題を直視し、
その死を超えた摂取不捨の利益、
「人生の目的」が語られることです。
死の問題を話した上で、
捨てられない幸せがあると言う。
どう考えても捨てられるはずなのに。
薄甘い人生論はいくらでも、
死を無視すれば言えますが、
死を直視している。
人間の知恵で分かる範囲を超えている
と思ったんです。

聞き続けようと思ったのは?
2週間程聞いたときに、
トルストイの『懺悔』の話を聞いたんです。
「こんなことがよくも当初において理解できずにいられたものだ、とただそれに呆れるばかりだった。
こんなことはいずれもとうの昔から誰にでも分かりきった話ではないか。
きょうあすにも病気か死が愛する人たちや私の上に訪れれば、(すでにいままでもあったことだが)死臭と蛆虫のほか何ひとつ残らなくなってしまうのだ。
私の仕事などは、たとえどんなものであろうとすべては早晩忘れ去られてしまうだろうし、私もなくなってしまうのだ。
とすれば、なにをあくせくすることがあろう? よくも人間はこれが眼に入らずに生きられるものだ――これこそまさに驚くべきことではないか! 生に酔いしれている間だけは生きても行けよう、が、さめてみれば、これらの一切が――ごまかしであり、それも愚かしいごまかしであることに気づかぬわけにはいかないはずだ!」
(『懺悔』トルストイ)
勉強会でこの内容を聞いたときに、
「えっ」と驚きました。
こんな話をした上で、
人生の目的があると言うのか、と。
それだったら聞いてもいいかなと思ったんです。
講師の方や先輩に、
疑問質問ぶつけつつ、反発しながらも、
今までお育ていただきました。

今の聞法の原動力
私は、自分の聞法心が強いとか、
モチベーションに溢れているとか、
とてもじゃないですが、思えません。
仏法をお聞きするほどに、
「死の問題、本当にまずいな」と思います。
善知識とのご縁が、多生にも無いことだと
分かれば分かるほど、
問題の大きさに反比例して、
自分の聞法心の小ささが怖くなります。
原動力のない自分を恐ろしく思います。
とにかく仏縁を求めなければならないと思います。
今後の抱負
私よりも年上の人たちは、
若い世代に合わせた活動を
していくことができなかった。
それで元気がなくなってしまった人もありました。
それがちょうど今、
私が気力、体力、精神力があるタイミングで、
新しい形になる。
阿弥陀仏に守っていただいているように思います。
なあなあにしないで、やれることをやり切って、
次の世代に繋げたいと思います。
前任の方が、できる限界までやりきってくれた。
私は前任の方と、得意とするところが違いますが、
得意な分野を活かして、
浄土真宗、親鸞聖人の御教えを
若い世代が求めていける、
持続可能な礎を作りたいんです。
10年後、20年後も、
青年は東京に集まり続けると思います。
その人たちが、人生に悩んだとき、
仏縁を結べるだろうか?
このままではいけないと思います。
関東の青年の長の立場をいただいているが、
皆さんに仏縁を守っていただいている。
皆さんそれぞれに頑張っておられて、励まされる。
私一人だったら、
どれだけでもダラけてしまうところ、
皆さんに支えられている。
共に頑張っていきましょう。
編集後記
偽りのないご自身の姿を凝視し、
真剣に親鸞聖人の御教えを聞き求め、
今から永遠の未来に現れる若き同行の為に、
百年の計を練るO.S.さんのインタビューでした。
その誠実な求道姿勢は、青年達を優しく、力強く、
リードしています。
親鸞聖人の御教えの元、青年一同団結し、
死を超える幸せの世界があることを、
自他に徹底していきたいと思います。