今回は顕真平成31年3月号の記事で、高森先生が初めて東京でご法話を開かれたときのことを紹介します。
今回は田さんの記事を掲載しています。
高森先生初の東京ご法話
「なぜ生きる」を全世界に伝え、人類救済を果たすには、日本の政治・経済の中心である東京に真実を拡大しなければならない────。
これは、本会結成時からの一大課題であった。東京で初めて、高森先生ご法話が開催されたのは、昭和45年。以来、50年近くがたち、現在では関東各地に親鸞会館が建立され、御法の華が咲き誇っている。
いかにして法輪は、東京と首都圏に拡大したのか。そこには、苦労して遠方へはせ参じ、「仏法は聴聞に極まる」のご教導に身を沈める親鸞学徒の姿があった。田さんと鈴木さんに語ってもらった。
昭和30年代の東京
昭和30年代の東京には、福井県で高森先生にお遇いした池田さん、その友人の古後さん、中山さん(いずれも故人)など、親鸞学徒は数えるほどだった。
昭和37年、池田さんたちが、有縁の人に仏法を伝えようと、近くの寺へ行った時、当時、20代後半だった田さんと知り合いになった。田さんは後に、東京支部の副支部長、神奈川支部長になった学徒である。
往時を、田さんはこう回想する。
「私は、真宗が盛んな熊本県に生まれました。母から、『私たちは地獄を出る時に、水を飲んで、砂食べてでも仏法聞くぞ、と心に誓って、人間界に生まれてきたんだよ』と言い聞かされていたので、小学生の頃から、母や大叔母についていって、仏法聴聞に加わったものです。そこでは常に、後生の一大事の解決を果たさねばならない、と語り合われていました」
戦時中は仏法から遠ざかっていたものの、敗戦後、19歳で東京の洋服店に就職し、再び聞法したいと、寺院に通うようになった。
ところが、どれだけ聞いても、肝心の後生の一大事の話がない。不満に思って別の寺院に参詣した時、3名の親鸞学徒と知り合ったのである。
池田さんから、高森先生の『顕正』を借り、「生死の大問題は戯事ではない。人の顔色を窺って場面を糊塗すべきではない」と真剣に、後生の一大事一つを説かれる文面に、「この先生に間違いない。やっとお遇いできた」と思い、富山県高岡市前田町の本部会館に電話して、すぐに学徒になったという。昭和37年のことであった。
また、中山さんから、「高森先生の後生の一大事のご説法を一緒に聞きに行きましょう」と勧められ、間もなく、前田会館へ初めて参詣したのである。当時、東京から富山まで聴聞に向かう人はほとんどいなかった。しかし、中山さんたちは、親鸞聖人の、
たとい大千世界に
みてらん火をも過ぎゆきて
仏の御名を聞く人は
ながく不退にかなうなり
浄土和讃
のお言葉に従い、
「仏法は火中突破の真剣な覚悟で聞け。遠くへ出掛けて足で聞け」を実践していたのである。
田さんは、「高森先生は当時も、親鸞聖人のお言葉を必ず提示なされ、まるで宝石箱を引っ繰り返したようなお話で、引き付けられっぱなしでした」と語る。
滋賀県でのご法話にも足を運んで、後生の一大事の解決を求めるようになった。
昭和41年、田さんが親鸞会館に電話すると、高森先生が出られたことがあったという。名前を告げるや、「今度、滋賀会館の落慶だから、来なさいね」と誘ってくださり、お葉書を賜った。
「合掌
心の砂漠のような東京の真中に貴女のような真実を求めている方がいられることを知って、大変なつかしく思います。顕正新聞にも出ていますように、七月十六・十七、両日、滋賀県米原の会館の落慶式には是非おいで下さい。
お会いしたいと思います。
しっかり求めましょう」
田さんが滋賀会館に参詣し、ご面会を申し込むと、高森先生は大変なお疲れにもかかわらず会ってくださり、歓談してくだされたという。以後、滋賀会館に参詣した時には毎回、先生のお部屋へ、ご挨拶に行くようになった。
ある日、台所で手伝いをしていた時にも入ってこられ、「ミカン、どうぞ」と、手渡してくだされたという。一人一人の仏縁を大事になされる高森先生のご教導によって今日がある、と感じている。
講師を招待し、布教開始
昭和40年代初めには、東京の親鸞学徒が集まると、いつも、「何とか、この関東に真実を伝えたい。まずは、講師の方を招待できないだろうか」という話になった。
その声に、池田すてさんが、文京区目白台の自宅を会場として提供。法律家を目指して富山から上京し、若い人に果敢に仏法を伝えていた学徒の山﨑さん(現・弁護士)の縁で、姉の山﨑春枝講師(現・顕真学院長)を毎月招待することになったのである。参詣者は平均10人ほどだったが、次第に増加し、やがて、「高森先生に東京へおいでいただきたい」と、皆の気持ちが高まった。
しかし、先生のご法話となると、会場費、宣伝費などが大きく、当時の少ないメンバーでは至難に思われた。
その時、池田さんが、「私の息子は3人、戦死しています。遺族年金で、施主にならせていただきたいと思うのです」と申し出たので、一同感激。「私たちもさせていただきます。高森先生を今こそ、この東京へご招待しましょう」とまとまったのである。
聴衆の熱気が会場に充満
初の東京ご法話は、昭和45年秋に、渋谷区元代々木町の応慶会館で、4日間開かれた。応慶寺という真宗系の単立寺院(現在は本願寺派)の建物で、当日は立錐の余地もなかった。
(現在の應慶寺)
田さんはこう語る。
「最初に仏教の大宇宙観をお話しくださり、壮大なスケールに感動した聴衆の熱気が会場に充満したことを、今でも鮮明に覚えています。東京は、仏法の尊さの分からない人が多いから、いかに深遠な教えなのか、お話しくださったのではないでしょうか」
法話終了後、高森先生の控室に伺った3人の参詣者があった。戦後間もない頃、京都本願寺の門前で、先生が学生服に金ボタンのお姿で辻説法なされていたのを聞いていたという。転勤で東京に移り住み、20数年ぶりに大都会のド真ん中でご法筵に遇ったのだった。
遠方からの参詣者は、応慶寺の施設に宿泊した。高森先生は浴衣掛けで皆の前に出てこられ、リラックスした雰囲気でお話しくだされたこともあったという。
4日間のご法座は瞬く間に過ぎ、約20名が親鸞学徒となって、東京に法灯が明々とともされたのである。
2回目は昭和47年、目白グランドハイツという会場であった。このご法話に向け、田さんなど学徒有志が、西本願寺の東京別院である築地本願寺へ行き、説教が終わって帰途に就く参詣者に、案内チラシを配った。
昭和50年、渋谷区立新橋区民会館が、3回目のご法話会場に選ばれた。その時には、仏縁を結んだばかりの柳沢義教さん(東京造形大学、現・親友部)が制作した秀逸なポスターで大々的に宣伝がなされ、大きな効果があった。
仏縁深き学生の活動
昭和50年代には、関東の学友部が急速に発展した。北陸で誕生した学友部が関西、東海に教線を伸ばし、ついに関東での活動が始まったのである。
学生数4万を超える私学の雄・早稲田大学を中心に、他大学にも波及し、表弘明さん(布教講師)、渡部隆志さん(弘宣局長)、林弘和さん(経理課長補佐)など、仏縁深い人材が陸続と現れた。
当時、東京から富山の親鸞会館へ参詣するには、往復、夜行列車を利用することが多かった。車内には、深夜まで真剣に教学短冊に目を走らせる人や、聴聞録を書く人、隣席した旅行客に仏法の話をする人など、求法を喜ぶ表情があふれていた。親鸞会館だけでなく、毎週日曜の各地の高森先生ご法話に、ほとんど欠かさず参詣する一般部、青年部、学友部の学徒が増えていった。
800年前の関東の同行は、
「十余カ国の境を越え、往生極楽の道を問い聞かんがため」、京都の親鸞聖人を訪ねたことが、『歎異抄』2章に書かれている。現代の関東の親鸞学徒は、夜行列車で最高無上の法を求めたのである。
熱心に聞法するほどに、一人一人の心に高まるのは、高森先生ご法話を東京でもっと多く開催したい、の思いだった。当初は、数年に1度の割合だったのである。大会場を探して、高森先生を毎年ご招待する準備も、着々と進められるようになった。
また、「真実知らされた喜びを一人でも多くに伝え、渇いた魂に甘露の法雨を注ぎたい。」と、情熱を燃やす学徒の活動が展開されたのである。
編集後記
「なぜ生きる」を関東で伝えられていた親鸞学徒の熱い気持ちや、高森先生とのやりとりから当時の状況が伝わってきます。
田さんのお母さんの話もとても示唆的で、改めて真剣な聴聞の大切さを知らされます。
私たちも、親鸞聖人のみ教えを求める方々へお伝えし、東京桜台会館で真剣な聴聞をさせていただきましょう。