今回は、親鸞聖人が、越後から常陸国で稲田で草庵を構えるまでの道のりについて、紹介します。
越後を離れるきっかけ
親鸞聖人は、承元元年(1207年)35歳の御時、「承元の法難」によって、越後(現・新潟県上越市)へ流罪となりました。
越後への流刑と、越後でのご布教については、以下の記事をお読みください。
そして建暦元年(1211年)11月17日39歳の時に、待ちに待った赦免の知らせが親鸞聖人のもとへ届きます。
しかし2ヶ月後の建暦2年(1212年)1月25日に吉水の御坊で、法然上人は80歳で往生を遂げられました
「たとい法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候」と言われるほど、法然上人をお慕いしていた親鸞聖人の悲しみは計り知れません。
親鸞聖人は、法然上人のおられなくなった京都に戻られることはありませんでした。そしてしばらく越後に滞在したのち、40歳を過ぎてから、関東へ向かわれました。
親鸞聖人はご自身のことをほとんど書かれていませんので、なぜ京都に戻られなかったのか、なぜ関東に向かわれたのか、など、その理由はあきらかにはなっておりません。
ただ関東に縁があったためと言われています。
事の縁ありて東国にこえ、はじめ常陸国にして専修念仏をすすめたまふ。
引用:『最須敬重絵詞』
意訳:ある事情があって東国(関東地方)に行き、最初に常陸国(現在の茨城県)で阿弥陀仏の本願を弘めました。
信濃国(長野県)善光寺へ立ち寄る
親鸞聖人は越後から関東へ向かわれる途中、信濃国(長野県)の善光寺へ立ち寄られたようです。
善光寺近辺には親鸞聖人の伝承が数多く残っています。
法然上人の弟子であった証空(西山派)・重源(大原問答後、法然上人に師事)・良忠(鎮西派)の著名な浄土宗僧侶も参詣するほど、当時から有名な寺でした。
その後、上野国佐貫(群馬県板倉町)へ向かわれています。
上野国佐貫(群馬県板倉町)
親鸞聖人は、建保2年(1214年)42歳の時、現在の宝福寺付近に、しばらく滞在されたようです。
ここで、親鸞聖人は、浄土三部経を読まれたことが、『恵信尼文書』に書かれています。
『恵信尼文書』は『恵信尼消息』とも呼ばれ、大正時代に見つかった、81歳の恵信尼から娘の覚信尼へ当てた10通ほどのお手紙のことです。
三部經げにげにしく千部読まんとし候事は信蓮房の四歲の年、武藏の國やらん上野の國やらん佐貫と申すところにて讀みはじめて、四五日ばかりありて、思ひかへして常陸へおはしまして候ひしなり
引用:『恵信尼文書』
意訳:三部経を本当に千部読もうとしたことは、信蓮房(4男)が4歳の年に、武蔵国か上野国かの佐貫という場所で読み始めました。そして、4、5日ほど経ってから、考え直して常陸へ向かったのです。
当時の東国は、地震、大雨、洪水、飢饉などによる災害が相次いでいました。聖人が佐貫に到着された1214年にも「武州入間河原の事」として、鴨長明が『発心集』の中で、堤防の内側に広がる農地や民家があり、激しい洪水により堤防が決壊し、家々は天井近くまで水没しました。そして、徐々に増水する濁流に乗って、家屋が静かに、しかし容赦なく押し流されていく光景が描写されています。
このような状況で、親鸞聖人はなぜ浄土三部経を読まれ、そして考え直されたのでしょうか。
詳しくはこちらの記事をご覧ください。
それから常陸国に到着された親鸞聖人は、まず下妻に滞在しました。
常陸国下妻(茨城県下妻市)
茨城県下妻市には親鸞聖人が滞在したとされる「小島の草庵」があります。
小島の草庵は、建保2年(1214年)親鸞聖人が42歳の時、小島郡司武弘が聖人を慕い、下妻に草庵を設けて聖人をお迎えしたと伝わっています。
蓮如上人の孫にあたる顕誓が書いた『反古裏書』には「常陸国下妻の三月寺小嶋に三年ばかり」とあり、親鸞聖人は、ここに3年ほど滞在したのち稲田へ移ったといいます。
小島の地は門弟蓮位に託され、後に草庵は蓮位、またはその子孫によって「三月寺」になったと伝わります。
一方、『恵信尼文書』では「常陸の下妻のさかいの郷というところ」で親鸞聖人の夢をみたという記録がありますので、下妻の幸井(坂井)郷にいたともいわれます。
いずれにせよ、常陸国の下妻でしばらく滞在しました。
常陸国笠間郡稲田郷(茨城県笠間市)
親鸞聖人が関東布教で、もっとも長く滞在されたのが、稲田の草庵でした。
親鸞聖人が常陸国稲田(現在の茨城県笠間市)を訪れたのは、当地の領主稲田九郎頼重の招きによるものという言い伝えがあります。
親鸞聖人は家族とともにこの地に草庵を設け、妻の恵信尼公と共に20年の歳月を過ごしました。
この間、聖人は諸国で精力的に教えを伝え、多くの人々を真実の教えに導き、関東の二十四輩といわれる有名なお弟子も現れています。
さらに布教の合間を縫って、浄土真宗の根本聖典である『教行信証六巻』もこの地で執筆され、関東から浄土真宗が始まったと評価する人さえいます。
ただし親鸞聖人は浄土真宗の開祖は法然上人だと仰っています。詳しくはこちらの記事をご覧ください。

親鸞聖人が越後から関東までに歩まれた道には、さまざまな奇瑞が残されており、そして数多くの親鸞学徒が誕生し、活躍していくこととなります。
編集後記
親鸞聖人が越後から関東に向かう道中に、多くの親鸞学徒が誕生し、親鸞聖人の教えを聞き求める人が現れています。
現在と異なり、越後から関東までの移動は大変であり、また付き添いの弟子がいたとはいえ、家族と一緒での移動となりますので、そのご苦労は想像できるものではありません。
しかし親鸞聖人はどのような状況であっても、常に阿弥陀仏の本願を一人一人に伝えられました。
親鸞聖人のご苦労を偲びながら、関東に伝えてくだされた阿弥陀仏の本願を、浄土真宗親鸞会東京桜台会館で真剣に聞かせていただきましょう。