今回は関東二十四輩の第四番にあげられる乗然房領海について紹介します。
前回紹介した鹿島の順信房の弟にあたります。
兄の順信房についてはこちらをお読みください。

親鸞聖人が関東で出会われた人々とは
法然上人から阿弥陀仏の本願を聞かせていただいた親鸞聖人は、承元の法難(1207年)による越後流罪を経て、建保2年(1214年)頃、家族とともに関東(常陸国)へと入られました。
この東国での約20年間にわたる布教活動が、後の浄土真宗の礎を築く決定的な時期となります。
親鸞聖人が関東で対峙されたのは、どのような人々だったのでしょうか。
それは、京都の洗練された貴族社会とは全く異なる、荒々しくも実直な「坂東武者」たちでした。
彼らは主君への忠義と一族の繁栄を第一義とし、そのためには殺生も辞さない時代を生きていました。戦いに明け暮れる日々の中で、武士たちは深い苦悩を抱えていたのです。
どこまで戦えば、本当の幸せが訪れるのか。
どれだけ領地を広げれば、心の平安が得られるのか。
当時の南都北嶺を中心とする顕密仏教の教団は、鎮護国家の祈祷や荘厳な儀礼を重視していました。人々を救うための教えは、高度な学問と厳しい戒律、そして多額の寄進を前提としていました。
日々の生存競争に明け暮れ、殺生を生業とする東国の武士階級や、貧困にあえぐ一般庶民にとって、それはあまりにも遠く、手の届かないものだったのです。
彼らは自ら日々造る罪業を自覚しつつも、そこから逃れる術を持たない「宗教的難民」とも言うべき状態に置かれていました。
武士・親綱の苦悩―力では解決できない問い
そのような武士の一人が、親綱(ちかつな)、のちの乗然房でした。
乗然房は、俗名を片岡尾張守源九郎親綱(かたおか・おわりのかみ・みなもとのくろう・ちかつな)といいました。上野国(現在の群馬県)片岡郡を本拠とする有力な武士団の一人です。
兄の片岡信広(後の順信房)が鹿島神宮の宮司となり、弟の親綱が藤原家の流れを組む片岡の家名を継いだといわれます。
親綱は兄とは全く異なる生き方をしていました。
力がとにかく強く、誰も勝てないほど勇猛であったため「万夫不当の驍勇」として伝わります。この「万夫不当」とは、一万人の敵でも当たることができないという意味で、最高の武勇を表す言葉です。
やがて親綱は、茨城の美浦村木原の領主の地位に上り詰めます。
敵を倒し、領地を奪うことは、武士としての誉れでした。強さがあれば誰も咎めることはできません。
力と権力の頂点で問う
しかし親綱は、同時に深い苦悩を抱えていました。
源平の争乱から続く血で血を洗う権力闘争を目の当たりにしてきた彼は、自問せずにはいられなかったのです。
「このまま戦い続ける人生で良いのか。」
武士として生きることは、罪を重ねることでもありました。 仏教では、殺生は十悪の一つで、恐ろしい罪と教えます。いつ殺されるかわからない、死と向き合いながら、仏教に関心のあった親綱には、罪の恐ろしさも感じずにはおれませんでした。
「このままでは自分の後生はどうなるのか。」
その不安は日に日に大きくなっていきます。
親綱はいっそのこと武士の地位を捨て出家し、後生の問題を解決したいと考えるようになります。
しかし自らを導いてくれる大徳がどこにもいません。
領主として、そして一人の人間として、煩悶する日々が続きました。
霞ヶ浦湖畔での親鸞聖人との邂逅
そんなとき、運命の出会いが訪れます。
親綱と親鸞聖人の出会いは、霞ヶ浦湖畔の草庵でした。
親鸞聖人がこの地を訪れられたとき、漁民の間で聖人の奇瑞(不思議な出来事)の噂が広まっていました。
茨城の美浦村木原付近の領主となっていた親綱は、この噂を聞きつけます。そして、親鸞聖人が実際に来られて説法されていることを知ると、すぐに聖人に会いに行きました。
真実の教えとの出会い
親綱は親鸞聖人から阿弥陀仏の本願を真剣に聞かせていただきました。
親鸞聖人が説かれたのは「悪人正機」の教えです。つまり、煩悩具足の極悪人こそ、阿弥陀仏の救いの対象であるという教えでした。
これは親綱にとって、大変な驚きでした。
武士として殺生を重ね、罪深い自分こそが、阿弥陀仏の本願の対象だというのです。
武士を救う「不来迎」の教え
親綱の驚きはそれだけではありませんでした。
当時の一般的な浄土教は次のような教えがひろまっていました。
それは、死の瞬間に阿弥陀仏が迎えに来るという「臨終来迎」を待ち、その時まで念仏を怠らない「臨終の正念」が、往生の条件とされていたのです。
「臨終の正念」とは、死の瞬間に心を乱さず、阿弥陀仏を念じ続けることです。
しかし、いつ戦場で命を落とすかわからない武士にとって、「臨終の正念」を保つことは可能でしょうか。
戦場で槍に貫かれたり、刀で斬られたりした瞬間に、果たして冷静に阿弥陀仏を念じることができるでしょうか。
武士にとって、当然至難の業だったのです。
しかし親鸞聖人は、「不来迎」の教えを鮮やかに説かれます。
平生に「往生一定」の大安心
「来迎」をたのみにする人は、臨終まで”必ず浄土へ往ける”という「往生一定」の確信がありませんから、現在が不安に満ちた生活となります。
ですから、「来迎」を頼りにする宗派では、臨終に、阿弥陀仏の木像の手に糸を引っかけ、その糸の端を握らせて、極楽へ引っ張ってもらおうとする儀式さえあります。これは、平生に明らかな弥陀の救いに値っていない人の”最後のたのみ”でしょう。
浄土真宗でも、「この世で救われることはない。弥陀の救いは死んでからだ」と聞き誤っている人は皆、この「来迎」を頼りにしている人と同じといえましょう。
未来の救いを当てにして、不安をごまかそうとしているのです。
来迎は全く問題にならない
聖人は、弥陀に救われた平生の一念に「来迎」を体得なされたので、臨終の来迎など問題にされなかったのです。 浄土真宗の教えは、平生に救われた一念から「仏凡一体」ですから、「常来迎」であり「不来迎」なのです。
このことを親鸞聖人の教えをそのまま伝えられた蓮如上人は『御文章』一帖目四通に、次のように教えられています。
されば聖人の仰には、『来迎は諸行往生にあり。真実信心の行人は、摂取不捨の故に正定聚に住す、正定聚に住するが故に必ず滅度に至る、故に臨終まつことなし、来迎たのむことなし』といえり
出典:『御文章』
意訳:だから親鸞聖人は、こう仰っている。「来迎」とは、死んでから助けてもらおうとする諸行往生の教えのことである。平生、弥陀に救い摂られた人は、往生一定の正定聚の身だから往生成仏がハッキリしているので、臨終がどうであれ、来迎など全く問題にならないのである、と
戦場で倒れようとも、不慮の事故で死のうとも、平生に阿弥陀仏から救い摂られていたならば、必ず浄土へ往けるというこの教えこそ、死と隣り合わせの武士たちにとって、自分たちが救われる真実の仏教であるとハッキリしたのです。
すべての人に通じる教え
そして、生と死が常に触れ合っているのは、武士だけではありません。
私たちも、いつ何が起こるかわからない「火宅無常」の世の中を生きています。明日の命さえ保証されていません。
親鸞聖人の「不来迎」の教えは、武士だけでなく、すべての人を救う真実の教えです。
すべての人を本当の幸福に救うという真実の教えに出会えたことを確信した親綱は、すぐに聖人のお弟子となります。
二首の和歌に込められた深い意味
親綱はお弟子になる際に、聖人と歌のやりとりを交わしました。
よしあしも知らぬ難波の蚤小舟 誓の海によりてさだめん
親綱
意訳: 物事の善し悪しもわからず、難波江(なにわえ)に浮かぶ「芦」で作った小舟のように頼りない私ですが、阿弥陀仏の本願の海にお任せして、往生を定めていただこうと思います。
親綱は、自分を「頼りない小舟」に喩えました。武力では誰にも負けない「万夫不当の驍勇」と呼ばれた彼が、阿弥陀仏の本願の前では「よしあしも知らぬ」頼りない存在だと告白しているのです。
この歌には親綱の深い罪悪観と、同時に阿弥陀仏の本願にあった喜びが表れています。
これに対して親鸞聖人は、次のように返されました。
本願の海によりてのあま小舟 櫓櫂もとらて乗りてしかなり
親鸞聖人
意訳: 本願の海にお任せしたその(海人の)小舟であるならば、自分で櫓(ろ)や櫂(かい)を操ろうとする必要はない。ただそのまま乗っていればよいのだよ。
親鸞聖人は「櫓櫂もとらて(櫓も櫂も取らないで)」と詠まれました。櫓や櫂は、船を進めるための道具です。つまり、自分の力で船を進めようとする必要はないということです。
自力の心がある限り往生できません。
阿弥陀仏の本願の海に身を任せたならば、自力で何かをしようとする必要はない。死ねば必ず本願の力で極楽浄土に運んでいただけるのです。
親鸞聖人はこの歌をもとに、「乗然房領海」という法名を親綱に与えられました。
親鸞聖人との別れ
乗然房は霞ヶ浦湖畔の草庵を「帰命山無量寿院如来寺」として創建し、親鸞聖人の教えを伝え続けました。
正信偈の最初の一文が由来となっています。親鸞聖人に深く帰依していたことがわかります。
親鸞聖人が60歳を過ぎ、京都へ帰られるとき、乗然房は大きな決断を迫られます。
乗然房は、京都に連れていっていただきたいと聖人に懇願しました。
しかし親鸞聖人は、乗然房に関東に残り、関東の人々に教えを伝えるようにと言われました。
これは乗然房にとって、どれほど辛い別れだったことでしょう。当時は今日と異なり、簡単に京都に行くことはできません。 一度離れれば、生涯の別れになりかねないのです。
それでも乗然房は、親鸞聖人のご教導に従い、関東に残って布教活動を続けることを決意したのです。
親鸞聖人からのお手紙に記された関東の門弟への思い
親鸞聖人は京都に帰られた後も、お手紙でご教導くださっています。
建長4年(1252年)2月24日の親鸞聖人からのお手紙である『末燈鈔』には、次のようにあります。
この文をもちて、鹿島・行方・南庄、いずかたにもこれにこころざしおわしまさんひとには、おなじ御こころによみきかせたまうべくそうろう。あなかしこ。あなかしこ。
出典:『末燈鈔』
意訳: この手紙を携えて、鹿島・行方・南庄のどの地域であっても、この教えに志を持っておられる人には、分け隔てなく同じ心で読み聞かせていただきたいと思います。あなかしこ、あなかしこ。
ここで「南庄」という地名があげられています。
この南庄は、乗然房をはじめとする親鸞学徒がいた場所でした。
親鸞聖人は京都に帰られた後も、関東の同行のことを常に思い、お手紙を通じてご教導を続けられたのです。
これは関東の同行からの志(お布施)へのお礼を述べられた後、深いご教導をくださった最後に書かれていることです。
乗然房は晩年まで親鸞聖人を支え続け、関東の親鸞学徒とともに阿弥陀仏の本願を伝えていたのでした。
現在に残る足跡
霞ヶ浦近くの美浦「如来寺」は、現在天台宗となっていますが、明応7年(1498年)、筑波山麓の柿岡「如来寺」と寺地を交換し、互いに移転して現在に至ります。
時代は変わっても、乗然房が親鸞聖人の教えを伝えた場所として、その名前は今も残っているのです。
編集後記
「万夫不当の驍勇」と謳われた武士が、教えの前では真摯に耳を傾ける。当時周囲からは異様に映ったかも知れません。
しかし力では誰にも負けなかった乗然房が気づいたのは、地位や名誉や人間の力では解決できない「人間、死んだらどうなるか」という最大の問題でした。どれだけ戦いに勝ち、領地を広げても、本当の安心は得られない。この親綱の苦悩は、現在の私たちも苦しめる大問題です。
乗然房は親鸞聖人から教えを聞かせていただき、阿弥陀仏の本願以外に真実の救いはないとハッキリ知らされたのです。
何のために仏教を聞かなければならないのか、仏教を聞く原点を忘れているときはないでしょうか。
自力の心がある限り、本当の幸せになることはありません。
これからも浄土真宗親鸞会東京桜台会館で、他力になるまで阿弥陀仏の本願を真剣に聞かせていただきましょう。