鹿島の順信房の生涯と功績―神職の名門から親鸞聖人の高弟へ―

今回は、関東二十四輩の3番目としてあげられる鹿島の順信房について紹介します。

目次

鹿島神宮の名門に生まれて

鎌倉時代。常陸国(現在の茨城県)鹿島の地に、片岡信広という青年がいました。

彼の生まれは、藤原鎌足を始祖とする大中臣氏の一族という名門。父は鹿島神宮の大宮司・片岡信親(通称・片岡神主)という、由緒ある神職の家柄でした。

後に関東二十四輩の第三番に数えられる順信房、信広。由緒ある神職の家柄に生まれた彼の人生は、親鸞聖人との出会いによって、大きな転機を迎えることになります。

親鸞聖人との出会い

親鸞聖人が鹿島神宮を訪れたのは、『教行信証』という書物の執筆に必要な資料を求めてのことでした。

当時は神仏習合の時代。神社にも多くの仏具や仏典が保管されており、鹿島神宮には一切経が揃っていました。

親鸞聖人は執筆のため、しばらく鹿島の地に滞在します。

滞在中、聖人が説いた阿弥陀仏の本願の教えに、父・片岡信親は大変驚き、心が深く動かされます。

信親はすぐに親鸞聖人に深く帰依し、我が子・信広を聖人の弟子として出家させるという大きな決断をしました。

こうして信広は親鸞聖人から「順信房信海」という名を賜り、仏門に入ります。

神職の名門に生まれながら浄土真宗の道を歩むことになった順信房は、聖人が鹿島に滞在する間、行動を共にし、そのそばで熱心に学び続けました。

無量寿寺住持と鹿島門徒の結束

親鸞聖人の直弟子となった順信房は、師の指導のもと、新たな道を歩み始めます。そして聖人は、この地での教化の拠点として、一人の順信房に重要な役割を託します。

親鸞聖人は、鹿島での滞在中、現在の鉾田市鳥栖にあった「無量寺」という寺院に目を留めました。

この寺はもともと三論宗の寺でしたが、元久元年(1204年)に頓阿という僧が住持し、禅宗寺院となっていました。

聖人は縁あってこの寺の名を、阿弥陀仏の別名である「無量寿」を冠した「無量寿寺」に改めます。

そして、弟子となった順信房を、この寺の住持に任命しました。

無量寿寺を拠点とした順信房は、阿弥陀仏の本願を人々に伝え始めます。彼には、他の門徒にはない強みがありました。鹿島神社大中臣氏の出身であり、地元の有力者との交流が深かったのです。

その地の利と人脈を活かし、順信房は在地の武士や農民に粘り強く教えを広めていきました。やがて鹿島地域の門徒たちは無量寿寺を中心に固く結束し、順信房は「鹿島門徒の祖」と称されるほどの指導者となったのです。

70歳を迎えた頃、順信房は隠居を決め、塔の峰という場所の草庵に移りました。この草庵が、後に現在の富田の無量寿寺となったと伝えられています。

関東から西国へ、教化の旅

鹿島の地で確固たる教えの礎を築いた順信房。しかし、彼の活躍の舞台は、故郷である関東だけにとどまりませんでした。師である親鸞聖人の命を受け、その情熱はさらに遠方へと向けられます。

『光明山無量寿寺記』には、西の国々で教化活動を行ったことが記されています。

性光師命により西海を化す、摂州溝咋佛照寺はその旧跡

出典:『光明山無量寿寺記』

この記録によれば、順信房(性光)は、親鸞聖人の命に従い、現在の大阪にあたる摂津国溝咋(みぞくい)の佛照寺を拠点の一つとして、西日本でも精力的に教えを広めていたことがわかります。

佛照寺については、以下の記事をお読みください。

親鸞聖人との絆と終生の支援

東へ西へと教えを広める一方、順信房が何よりも大切にしていたのは、親鸞聖人との深い絆でした。その絆は、聖人がご往生された後も、決して揺らぐことはありませんでした。

親鸞聖人は晩年、常陸の弟子たちに宛てた手紙の中で、ご自身の死後、「今御前の母」と「即生房」という二人の生活を支えてほしいと依頼していました(『親鸞聖人御消息』)。この二人が具体的に誰であったかは明確ではありませんが、聖人のご子息ではないかと考えられています。

師である聖人がご往生された後も、順信房はこの依頼を違えることなく、忠実に果たし続けました。その証拠が、弘安5年(1282年)付の『信海書状』に残されています。

順信房は、親鸞聖人の末娘・覚信尼の長男である覚恵上人に宛てて、次のように書き送りました。

そくしやうの御房の御けうやうれうのこり候物、せん五すちまいらせ候、御はかの別当分にてわたらせ給あひた、そのむねを存し候てまいらせ候

出典:『信海書状』

これは、「即生房」が亡くなったあとの手紙で、「即生房の葬儀費用の残金を送る」あるいは「供養料の残りを送る」という意味だと解釈されています。

聖人のご往生から数年が経った後も、順信房が聖人の遺志を忘れず、報恩の心は尽きず、ご遺族を支援し続けたのでした。

編集後記

若くして親鸞聖人をお慕い申し上げ、聖人がご往生されてからも、遺された方々を支援し続けた順信房の姿から、親鸞聖人との深い絆が知らされます。

名門の家柄も地位も捨て、生涯真実に生きた順信房。その原動力となったのは、真実の教えとの出会いであり、聖人への報恩の心でした。

親鸞聖人の教えられた阿弥陀仏の本願は、単なる知識や理論ではなく、順信房の心を動かし続ける生きた教えだったのです。

800年の時を超えて、私たちもまた、順信房と同じく、親鸞聖人の教えを聞くことができます。

親鸞聖人の御恩を知り、御恩を感じ、御恩に報いられるよう、これからも浄土真宗親鸞会東京桜台会館で阿弥陀仏の本願を聞かせていただきましょう。

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