関東二十四輩2番目 真仏房の生涯と功績

今回は親鸞聖人関東二十四輩の2番目にあたる真仏房について、紹介します。

目次

真仏房の出自と生い立ち

真仏房の俗名は權大輔椎尾彌三郎春時といいます。

鎭守府將軍平國香の後裔で、下野(現在の栃木県)の國司大輔判官國春の嫡男として、承元3年(1209年)2月10日に生まれました。これは親鸞聖人が37歳の時にあたります。

春時は6歳で筑波山の俊源法師のもとで仏教経典や仏教以外の典籍を学び始めました。

14歳になると父の國春を補佐して国政に参与するようになります。春時は生来心が広く欲がない性格で、他人への哀れみ深い人物でした。

重罪人を裁くにあたって死刑に反対する姿勢を持っていたため、百姓たちは密かにその賢明さに畏敬の念を抱いたといいます。

父との対話

ある日、父の國春が春時に尋ねました。「お前は重罪人を裁くとき、いつも死刑を控える傾向があるが、それでは人々を統制できず、政治が成り立たないのではないか」

春時は即座に答えました。「ごもっともでございます。私はまだ幼く、政治の要諦など知りませんが、聞くところによれば、閻魔王は職務として人を地獄に落とし、仏は職務として人に慈悲を施し、いかなる罪人も救うとのことです。人民はこのどちらを好むでしょうか。私は人民が好む態度を取りたいと思います」

父の國春もこの道理には、我が子ながら感心したといいます。

これは少年春時がいかに慈悲深い人格であったかを示しています。

親鸞聖人との出会い

元仁元年(1224年)三月、春時は親鸞聖人が稲田におられるという噂を聞き、自ら草庵を訪ねて他力本願の教えを請いました。

聖人から「他力とは、『無義をもって義とす』」という教えを受けたとき、春時は深い感銘を受けました。

この「無義をもって義とす」という言葉は、阿弥陀仏に救われた人は、一切の自力のはからいがないという聖人の教えです。その教えの尊さに衝撃を受けたと言います。

春時は聖人の御前を辞して竹縁を下りる際、感極まって声を上げました。

「常日頃、常日頃、この聖人を、ただの唐土の孔子か、我が国の天皇のような方と思っておりましたが、極楽浄土から現れられた仏さまでありました!」そう言いながら、頭を地につけて礼拝して帰ったのです。

ちょうどその時、庵室には弟子の乗然房や順信房が居合わせており、春時のこの様子を不思議に思って見ていましたが、その意味が分からないままでした。

順信房への説明

その後、春時が再び庵室を訪れた際、年長の順信房がそれとなく帰り際のことを尋ねました。

春時は答えました。

「あの時のことですか。親鸞聖人の教え『無義をもって義とす』という意味は、仏の法であって、決して人間の勝手な法則ではありません。中国の孔子や我天皇は人間の作り出した法を扱われますが、聖人の教えは誠に仏智の法であることに気づき、ありがたさのあまり、あのように声を出してしまったのです。どうかお許しください」

この出来事は順信房を通じて草庵の人々に伝えられ、春時の優れた人格が評判となりました。

出家と「真仏」の名

嘉禄元年(1225年)七月下旬、父の國春が亡くなりました。春時は一時父の後を継いで眞壁の城主となりましたが、元来菩提心が強く、世俗の営みを好まず、ついに累代の家督を弟の眞壁四郎國綱に譲りました。

そして同年十一月四日、高田で聖人の弟子に加わり、「真仏」という法名を授かりました。時に年わずか十七歳でした。

「真仏」という名には意味があります。

通常、人が出家するのは身の不幸や困窮した場合が多いのですが、春時の場合は、年は若く、国の要職にもなり得る立場でありながら、断然として身を仏道に捧げようとする志を持っていました。

そのため「これこそ真の仏道を求める者である」という聖人の感銘があってのご選名でした。

高田の専修寺に住持

専修寺は、親鸞聖人が関東で布教の途中、この高田の地で親鸞聖人が寺院を建立されたことにはじまります。

この建立は当時の真岡城主であった大内氏の熱心な願いと支援によって実現しました。

翌年、一宇の堂が建立され、この重要な寺院の初代住持(住職)として任命されたのが真仏房です。

真仏房は初代住持として、寺院の経営と教団の基盤づくりに尽力し、この地を中心に関東一円の門弟たちを統率していきました。

彼が築いた聞法道場は、その後の浄土真宗発展において重要な拠点となっていくのでした。

親鸞聖人が京都へ帰られたあと

親鸞聖人が建長年間(1250年代前半)に関東を去り、京都へ帰られた後も、真仏房を中心とする関東の親鸞学徒たちは、師を経済的・精神的に支え続けました。

親鸞聖人のお手紙によれば、関東の門弟たちからたびたび「お志」が送られてきていることが記録されています。

正嘉元年(1257年)、真仏房は一度京都に上り、恩師・親鸞聖人との久しぶりの再会を果たしています。この時、聖人はすでに85歳でしたが、遠路はるばる訪ねてきた高弟との対面を大いに喜ばれました。

長年にわたり関東で布教に励んできた真仏房にとっても、晩年の師から直接薫陶を受ける貴重な機会となりました。

その後、真仏房は再び関東へ戻り、師から託された教化に残りの生涯を捧げます。

真仏房が遺したもの

真仏房の指導のもと門下からは多くの優れた人材が育ちました。

寺院に伝わる門弟名簿『親鸞聖人門侶交名牒』には、真仏房の門流に属する弟子たちの名前が20名近く記されており、多くの優秀な親鸞学徒を育成しています。

また是信、無為信らとともに東北の有志に迎えられて奥州に下り、立川流の邪義を批判するなど活発に破邪顕正に自ら立ち上がりました。

京都にある佛光寺派本山の佛光寺の二代目とされていることからも、全国に影響力があったことが伺えます。

しかし不幸にも短命で、正嘉二年(1258年)3月8日、50歳で示寂しました。親鸞聖人が90歳で往生される4年前のことでありました。

師亡き後も、真仏房を慕った高田門徒たちは、浄土真宗の教えを力強く伝え続け、関西、九州にまで広がっていきます。

編集後記

真仏房が国司の嫡男という恵まれた立場を捨て、親鸞聖人のお弟子になったのは、なぜ生きるの答えは、親鸞聖人の教えにしかないと、はっきりと知らされたからでした。

真仏房は50歳という若さで亡くなられましたが、後世の浄土真宗に大きな影響を与えたお弟子でありました。

それだけ親鸞聖人の教えを後世に残すために、ご苦労なされたからと知らされます。

先輩の親鸞学徒が必死に伝えてくだされた阿弥陀仏の本願を、これからも浄土真宗親鸞会東京桜台会館で聞かせていただきましょう。

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